唄うたい的、駄文。不定期自由帳。

ここではKoyama Naokiが思いつくままに・・・何か書いてます。
(2011年3月〜4月)

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2011年4月28日

言葉に出来ない悲しみを知った旅人同士。

明日を耕す宮城県で、新たな喜びを分かち合う収獲の日が必ず来ると、 言葉にしておきたい願いを呟く。

旅人同士。僕等は。 終わってはいない。
やるしかねぇっちゃ。東北再生


2011年4月17日

あの震災から一カ月が経ちました。 しかし、何の区切りもなく未だ揺れ続けている地球のように、 また、未だ収束しない原発事故のように、震災は現在進行形。

が、復興は始まっている。始まる事さえ出来ない所、 復旧に時間がかかる所もあるのも、果てしない悲しみもまた現実。
電車が徐々に走り始め、塩釜でのマグロの水揚げのニュース、店舗の営業再開、 あらゆる都道府県のトラックが走り、街は動き始めている。

一カ月経ち、この間に自分の暮らす宮城県の、いろんな街に行く機会も増えました。
内陸部でも、勿論ダメージは至る所にあります。道路、店舗、民家、工場など。 でも人は動いています。再生のために。

特に被害が大きく、未だ行方不明の方が大勢いる沿岸部の街にも行きましたが、 映像、写真で見るモノとは、比べものにならない光景がそこにありました。
言葉を失います。只々、無残です。

倒れかかった家の居間に 波に流され突っ込んだ車。畑に無数に散らばる日用品。 海から何キロも離れた場所に転がる船。グニャグニャになったフェンス。なぎ倒された林。 最近、立ち寄ったコンビニも、何十年も放置されていた廃墟のような佇まいに。
等々、言い出せばキリがないほど、信じられない光景。 これが、本当にあの街なのかと。自分の記憶に鮮明に残る、あの街が。

でも個人的にはこの光景を焼きつけておくべきなんだとも思いました。 自分も確かに被災地の人間ではあるんでしょうが、これを見てしまうとね。 ゴチャゴチャ言ってられなくなる。

宮城の海、漁業、水産業、景色は誇りだからね。絶対、復活するはずです。 沿岸部の壊滅を逃れた地域は、徐々に再開の狼煙が上がっているようですし。

あっそういえば、ニュースで見たんだけど 福島から避難した子が避難先で、放射能がうつると言われイジメられたというアレ。
まぁ大人でも似たような話しが、あるとか何とか、そんな話しも聞くけど、 本当にそんな事あるの・・・か?本当にあるとすると、悲しい話しだなぁ。何か。

ひでぇ話しだよ。仮に本当だとしても、極々一部の人なんだろうけど。 福島の人が幸せを感じられる世の中じゃなかったら、日本の復興も再生もない。 兎に角、原発事故の収束だ。

では、余震、地震が多発していますが、お互い気を付けましょう。 地球に逆らえる人はいないので、付き合っていくしかないんだなと、最近は思っていたり。 そんで、深呼吸。

油断は禁物。慣れも怖い。しかし、気を張ってばかりでも身が持たない。 ギターでも弾くかな。 イカン!ドロドロな曲を弾いてしまった・・・。まぁそれもいいでしょう。
と言ってる最中にまた地震。大丈夫ですか?


2011年4月8日

再生元年。

自分が暮らす " 故郷、宮城県 " 並びに東日本は大震災に襲われました。 改めて、御心配戴いた方々、自分は家族も家も無事です。ギターもね。感謝。
まだ余震が収まってないけど、とりあえず、つらつらと書きたいと思います。

3月11日。あの日は母親と一緒に、父親の墓参りに行った日でした。 墓参りも終わり、家に帰ってきて数十分後に地震が起きました。 兎に角、物凄い揺れでした。
部屋にある物が暴れる中、壁伝いにフラフラと歩き外へ、やっとの思いで出ました

しかし、その時から殆どのライフラインがストップしたため、 全く世の中で何が起きているのか分からない。

よく分からないまま、余震が収まってるうちに、暗くならないうちにと、 部屋を片付け始め、そして、どうしても行かなくてはならない場所があり、暗くなってはいたけど、 信号が消えた道を車で走り、その場所に行き、家に帰ってきました。

そして、「何だ結局、夜になってしまったなぁ。しかし、とんでもない揺れだったなぁ。 寒いなぁ。暗いなぁ。どうなるんだ?これ。」と愚痴った後、 時々使えた携帯などから入る情報は信じられない事ばかりだった。

津波?数百人の遺体を発見?あの街がのまれた?・・・急に恐ろしくなった。
でも、電気もないし、不安定な携帯もそんなに使うわけにもいかず。着の身着のまま寝た。 最近まで着の身着のままだったけどね。余震が多いし。

次の日。地震の後に走ったあの道は陥没していた。給水所も店も長蛇の列。 散らばる商品。壊れた店舗もあり。デコボコな道。
結局、電気は数日使えず、お風呂は二週間近く入れなかったし、 不便な事は確かに多かった。

だけど不便という言葉で自分は済んでいるともいえます。 ガスは使えたので、温かい食べ物は食べられて、服もあれば、毛布もある。 それも自分の家で、家族と。
自分の住む地域は比較的、被害が少ない地域だったようですし。

その全てが幸せだと心底思えるニュースばかりが毎日飛び込んでくる。
ラジオを聴き、新聞が届き始め、そして、テレビが視れる頃には、 テレビを視るのが怖くなっていたのも事実だけど。

親を亡くした子供、家を流された人、人を助けた後に波にのまれた人・・・・・・。
自分の身近な所からも誰々が亡くなった、誰々が行方不明だ、 家が水没したという話しも聞こえてきました。

沿岸部の街の姿は嘘のように跡形もない。
最初に過ぎったのは、原爆を落とされた後の街を映した映像の記憶だった。 まるでそんな感じじゃないかと。

自分の住む地域は沿岸部からは離れているので、津波の影響は全くありませんでした。
だけど、頻繁に行く街。それも直ぐ近くの街で起きている。
あの場所が防波堤になったとか、あれがなかったらという話しもあり、 タイミングによっては自分もどうなっていたんだろうと、後で思ったりもしました。

車で何度も走ったあの場所も、食事をしたあの場所も、海を眺めた防波堤も、 子供の頃に連れていってもらった海辺も、跡形もないのは悲しいし、 ライフラインはなく、行方不明の人を探す人は溢れ、馴染みの場所が遺体安置所になり、 ヘリコプター、サイレンの音を毎日聞き、ラジオで情報を得る。まるで戦時中みたいだなぁ、 なんて思いつつ。

その間も、傍で過酷な捜索活動などが行われているのに、 まるでそれが嘘のような綺麗な星空、穏やかな陽気もありました。

けど、自分と比べるのも申し訳ないほどの、傷を負い、あらゆる物を失い、 厳しい避難生活を強いられている人が大勢います。
自分の心の中にも不安はあります。 それ以上の途轍もない不安を抱える人がたくさんいます。 自分は動けるわけで、最早やるしかないんだよね。

暮らしを取り戻す。それも全く新しい気持ちで。

少しずつ、街は動き始めています。
あらゆる方のありがたい御支援と、東北の不屈の魂と、亡くなった命と、途切れた道と、 愛と悲しみが混ざった、この土地に桜が咲く。

長い道のりの始まりです。 今のこの景色を心に焼きつけて。 そして、その今を乗り切る事に皆一生懸命なんです。

また、唄いたい気持ちも咲いてますよ。オレは。ああ唄いたい。ああ曲作ろう。
電気のない寒い部屋で聴いた、坂本九さんの "上を向いて歩こう" と、 やっと電気が点き、テレビで聴いた、吉井和哉さんの " flower " を忘れません。 それでは、また。

原発事故の一刻も早い収束を。願いと怒りを込めて、日常は続く。


2011年3月16日

東日本大震災。

自分も家族も無事です。家の被害も、ほとんどありませんでした。

まだ全て安心できる状況ではありませんが頑張ろう。

宮城県の自宅から。Koyama Naoki。


2011年3月2日

カリスマと言ったモン勝ちの世の中に冷たい風が吹いておりますが、 いかがお過ごしでしょうか?また寒くなってきたね?

最近オレはミッシェル・ポルナレフばかり聴いています。 いやぁイイ。やっぱりイイ。フランス語は全く分からないがイイ。 元々すごく好きなんだけど、今の自分にやけにフィットする。 理由は分からないが。まぁ理由なんてどうでもいいけど。

巨匠は現在66歳。最近、子供が産まれたというニュースが流れ、 すげぇなオイと思っていたら、何と、産まれてみたら、それが自分の子供じゃなかったという、 世にも恐ろしく、悲しい話しの当事者でもあられますが・・・。

来日とかしてくれないかなぁ。もう30年くらい来てないようだけど。 2007年に行われたライブ映像を見る限り、現役感バリバリだからなぁ。是非、生で。

あえて最近、ここで触れてきませんでしたが、ここのところ、 自分が聴いてきたミュージシャンの死、解散が多い昨今、 まさに”ライブ”の大切さを実感しているので。復活という話しも多いんだけどね。

ニュージーランドの地震。

思う事は多々あるけど、言葉にするのは難しい。只々残酷だ。
街をまた元に戻そうと語る人。助かった事を素直に喜べない人。 建物に欠陥があったのではと語る人。信じて救助にあたる人。リミットは72時間と語る人。 身元が判別できない人。たまたま、そこにいただけの人・・・・・・。

少し思ったんだけど、家族、知人の方々に取材をする必要ってあるのかなぁ?
そして、次のニュースは政局の話し・・・。何なんだ・・・。